公益財団法人 とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2021年07月 少しだけ北の国から@福島

辻明典(つじあきのり)

少しだけ北の国から@福島(第21回)

会うことや、触れ合うことさえも、慎むことを求められるなかで、気は疲れ、ときには病むような思いで過ごされている方たちも、きっとおられることと想像しています(大阪なら、なおのことそうでしょう)。そして、人と人とが触れ合わず、距離を取ることが、道徳とすり替わってしまいはしないかと、心配もしています。人と会い、話すという行為は、尊いし、単純に素晴らしいものだと思っているから、なおのこと気にかかっています。
 僕が今住んでいる町は、とても都会とはいえませんし、少し自転車を走らせれば田園が広がっているばかりなので、何気なく出歩いたとしても、すれ違う人は、新型コロナウィルスが広がる前から、ほとんどおりません。とは言っても、どこの誰が感染して、どこの店に買い物に出かけていて、普段の仕事は何で…といった類の噂話はあっという間に、根拠すら危ういままに広がっていくので、そういった雰囲気にはほとほと嫌気がさしています。
 そんな窮屈な、穴蔵のような暮らしのなかで、僕はといえば、「手を使う」作業が無性にやりたくなりまして、何を思い立ったのか、5月の連休中は味噌作りに精を出しました(家の中を片付けていたら、たまたま味噌樽が見つかったということもあるのですけれど)。升と秤で量を確認し、大豆はすり鉢で潰しました。麹も温度に気をつけながらの手作りです(出来上がったばかりの麹は、栗の香りがします)。大豆と麹に、更に塩を混ぜ合わせると、柔らかくなっていく感触が、手触りでわかります。ついでに、昆布も味噌の中に仕込みました。
 新型コロナウィルスの影響で人と会う機会がめっきり減ってしまうとともに、身体全体で感じることを無性に欲するようになりまして、それは生理的といってもいいような感覚だったので、思い返してもとても不思議です。そういえば、少し昔の人たちは、暮らしのなかで必要不可欠な、衣食住に関わる物を、自分たちで賄ってきたはずです。そしてそれは、暮らしや文化の根っことも言えるのではないかと、思わずにはいられません。そうであったのに、僕たちはいつのまにかお金を払って得るサービスに依存するばかりになり、単なる「消費者」になってしまった。確かに便利にはなったけれど、身体全体を使って、感じ、味わうことを、いつの間にか忘れてしまったような気がしてなりません。
 なんだか尻切れとんぼのような気がしないでもありませんが、結局のところ、身体全体で感じることは、やっぱり大切だと思います。早くこのコロナ禍が落ち着き、安心して人と語り合える時間が戻ってくることを、切に願っています。

辻明典(つじあきのり)

協会事業(哲学カフェ、プロジェクト“さんかふぇ”等)に参加していた辻明典さんが、2013年度より故郷である福島県南相馬市に戻り、教員をしています。辻さんからの福島からの便りをどうぞ。