公益財団法人 とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2021年12月 少しだけ北の国から@福島

辻明典(つじあきのり)

 哲学とは、それぞれの哲学者の人間的な所産であり、哲学者は、他の肉と骨の人間に向かって話す
同じ肉と骨の人間なのだ。彼が何をしようと勝手だが、理性のみで哲学をするのではなく、意思、感情、
肉と骨、魂のすべてと肉体のすべてをもって哲学するのだ。要するに、人間が哲学するのである。
(ミゲル・デ・ウナムーノ『生の悲劇的感情』より)
 約10年前に初めて読んだ、スペインの思想家であるウナムーノの主著『生の悲劇的感情』のなかの言葉です。私にとって、大切な言葉です。哲学とは、机上の空論ではなくて、具体的な人との交わりの中でこそ、立ち上がってくるものです。初めて哲学に触れた頃の初心に立ち返らせてくれます。だから僭越ながら、ウナムーノと同じように、私にとっても、「哲学」は「人間的な所産」であり、とりわけ「書く」という行為は、生きることと重なりあう、大切な営みだと感じています。だからお恥ずかしながら拙稿も、生きることが重なり合うように、書き綴られるように、努めたいと思っています。
 この原稿を綴りはじめる、一月ほど前のことだったでしょうか。何を思いたったのか、自分でもわからないのですが、無性に、もう一度この目で見てみたい、という思いに駆られて、地元の小さな山の、登山口まで出かけることにしました。
 十数年ぶりかもしれません。子供の頃に、家族や親戚に連れられて登った小さな山です。最後にここに出かけたのは、高校生の頃だったでしょうか。一人で自転車をこぎ、登山道入り口まで向かっていたのですが、途中で猿の群れと遭遇してしまいました。ボス猿でしょうか、深遠な目つきで、じっと私のことを睨みつけていたことを覚えています。臆病だった私は、山を登りたい思いに駆られながらも、怖気付いてしまって、しかし登山への思いは断ち切れず、しばらくそこでじっとしたのですが、結局はボス猿の作り出した雰囲気に飲まれてしまい、後ずさりして、坂道を降りることにしたのでした。
 そんなことを思い出していたからか、もう秋口なので、道中、猿ばかりではなく、熊にも会わないようにしなければと、鈴を鳴らしながら、坂道を自転車で駆け登りました。幸いにも動物と出会うことはありませんでした。案の定、登山口から階段を上ると、山道は藪に覆われていて、どこが元々の道だったのかも、よくわかりませんでした。
 ここは原発事故によって、放射性物質が多く降り注いだ地域なので、人の出入りも減り、山は荒れ果ててしまったのでしょう。かつて、ここは、恵みに満ちた山でした。子どもの頃の記憶ですが、よく覚えています。ここで祖父母たちは山菜を山ほど採り、それが食卓に並ぶことが何度もありました。
 今は、もうそれすらもかないません。当然のことながら、ここで山菜を採ることはお勧めできません。口にすれば、内部被曝の恐れがあるからです。咀嚼された山菜が、身体の内部に留まり、そこから放射線を放ち、内側から肉体を蝕んでしまうでしょう。
 歩きながら、写真を撮りたくなりました。しかも、カラーではなく、モノクロで撮りたくなったのです。私なりの理由はあります。「この世界は、情報の波に溺れている。」という思いが、漠然とあるからです。
 インターネットや、ソーシャルメディアの発達は、世界の各地の人々を、「人間的な意味」で、つなげたのでしょうか。隔たりを乗り越えさせたのでしょうか。人と人との距離を縮め、分断を修復したのでしょうか。「いや、違う。」と私は思っています。むしろ、人々を隔て、分断を深めてしまったのではないでしょうか。
 何よりもメディアは、人間から想像する力を失わせてしまいました。いや、より正確に言うと、想像力を減退させてしまった。そんな気持ちを捨て去ることができません。だからこそ私は、想像力を鍛え直したいと思いました。モノクロの写真は、想像力を働かせてくれます。カラー写真にはない、力が隠されています。色がないぶん、写真に写らなかったものを想像する余地が生まれます。つまり、見る人を少しだけ、人を能動的にさせてくれるのです。

辻明典(つじあきのり)

協会事業(哲学カフェ、プロジェクト“さんかふぇ”等)に参加していた辻明典さんが、2013年度より故郷である福島県南相馬市に戻り、教員をしています。辻さんからの福島からの便りをどうぞ。