公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第4回 コリア・タウン フィールドワーク

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

私が勤務している小学校では毎年、六年生になると生野区のコリア・タウンに行き、体験学習しています。学校から一時間ぐらいの距離で、古代からの交流を知り、異文化体験ができ、「在日」の歴史に触れる、貴重な一日になっています。子どもたちは本当に楽しみにしていて、キムチや韓国のりだけでなく、ホットックやスルメキムチ、チャンヂャが美味しいときょうだいや先輩たちから聞きかじった情報が行き交っています。中には、お家の人から、あれこれと買い物を頼まれている子もいます。
事前学習に、こんなロールプレイを考えてみました。「今日から日本は占領され、アメリカになりました。学校で日本語を使ってはいけません。英語だけで授業をします。」信じられない英語なんかできない。「学校の先生はみんなアメリカ人になります。日本の大学は閉鎖します。大学に行きたければアメリカに行って下さい。」ええ?お金かかるやん。「土地もアメリカの物になります。収穫したお米はみんなアメリカに送ります。魚を捕るのもアメリカが許4.コリア・タウンフィールドワーク可した人だけです。」そんなん、食べていけない。「アメリカは今、戦争をしていて、工場で働く人がいません。賃金はアメリカ人の半分です。働きにきて下さい。」どんなひどい条件でも、飢え死にするくらいならアメリカに働きに行くしかない。「言葉も分からない外国で暮らすのはとても不安です。同じ村のみんなで行こう。アメリカ人の少ない所で集まって暮らそう。それなら日本語を話せる。日本の納豆や漬け物、梅干しも食べたいなと思うね。そのうちに、日本から物を運んできて、売る人が出てきます。そして市場ができます。実はアメリカは日本、日本は朝鮮です。」
このようにして出来たのがコリア・タウンです。一九一〇年に朝鮮は日本のものになりました。一九二〇年頃には土地などを奪われた人たちが、日本に来て生活せざるをえませんでした。一九二三年には済州島と大阪をつなぐ直行船、「君が代」が就航します。特に大阪生野区は特産物の「生野たまご」の製造やレンズ磨き、平野川の改修工事などの仕事がありました。朝鮮からたくさんの人たちが仕事を求め、移り住み、街ができます。十五年戦争がはじまると、ますます労働力不足になり、たくさんの朝鮮人が暮らすことになりました。戦後も住み続け、自分たちの力で学校や病院を建てたり、知恵と力とお金を出し合い、昔の朝鮮市場から朝鮮文化や人権を発信し続ける街、コリアタウンになっています。
今では、一年に八千人を越える若者が訪れるようになり、韓国からの修学旅行生を受け入れる予定もあるそうです。植民地となった人たちの側から歴史を見ることの大切さ、どうして日本は戦争を拡大していったのかという必然性、学ぶことはたくさんあります。
フィールドワーク当日は「コリアNGOセンター」の方に案内して頂き、事前学習で学んだことを実際に見て、歩きました。「先生がいつも買うキムチはどこの店?」と聞かれ、父の出身地と同じキムチ屋さんを紹介しました。済州島出身の友人も、同郷のお店で買うようです。幼い頃から慣れ親しんだ家の味が一番ですね。一軒一軒、味の違うキムチを楽しめるのもコリアタウンの醍醐味です。「オイソ(来なさい)ポイソ(見なさい)サイソ(買いなさい)」と書かれた百済門を後にし、キムチを買い込んだ八十四人の集団は電車に乗って帰って来ました。子どもたちも元気でしたが、電車の中はすごいキムチパワーだったと思います。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。