公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第84回 ムスターファさんとの再会

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

2002年にアフガニスタンから戦争難民として12歳の時、日本に来た、ムスターファさんのお話をはじめて聞いたのは、2014年6月に開催された大阪府外国人教育研究協議会第22回研究集会(府立外教大会)の全体会でした。中学校での講演をお願いすると、快諾してくださり、仕事の合間を縫って時間のかかる池田まで来てくださいました。
 アフガニスタンがどこにあるのか、大きく4つの民族がいて、それぞれロシアやインド、トルコ、アジアという違った顔立ちをしていること。たくさんの国の侵略、侵攻にあい、1989年、ソ連軍が撤退した後、国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)がはじまり、パキスタンに残されたアメリカ軍の武器を手に入れたターリバーンが力をもったせいで、ムスターファさんの家族は難民になり、日本に住むことになったいきさつが中学生にわかりやすく語られます。
 「どこにあるのかも知らなかった日本に着いたとき、トイレの使い方ひとつわからなくて、不安だった。魚を食べたことがなかったので、はじめて食べたうどんの出汁の魚臭さに吐きそうになった。アフガニスタンの広い家とはちがい、日本のマンションは鳥小屋のように狭く感じた。それまで右から左に書く字だったのが、学校に行くと、ひらがなも漢字も左から右。真逆の文化にとまどいしんどかった。体育と図工の時間以外は日本語教室で学習していたが、最初、珍しがって遊んでくれたクラスメートも、慣れてくると日本語が通じないので面倒くさいといじめるようになった。4年間、離れ離れだった家族がようやく一緒に暮らせるようになった。苦労している両親に心配かけたくなかったので、いじめられていることは言わなかった。とくにお母さんは家の中にいるだけの生活。いじめられても学校に行ける自分はまだましだった。中学校に入ってからは陸上クラブの花形になり、一目置かれ、いじめられることがなくなった。2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、アフガニスタンというとテロリストと思われるようになり、アフガニスタンから来たことを隠した。スカーフを巻いた母親と一緒だとばれるので、一緒に歩かない。電車にも別の車両に乗っていた。ひどいことをしたと思うが、それくらい追い込まれていた。適当な嘘ばかりついて、中学校生活を終え、外国人枠がある高校に入学することができた。そこは中国の生徒がたくさんいて、中国の文化活動が活発だったが、その他の外国人生徒が集まる場がなかったのでクラブをつくった。韓国やフィリピンをはじめ、外国人生徒が集まると、自分の国の自慢話がはじまる。アフガニスタン人なのに、アフガニスタンのことを避け、何も知らない自分に気がついた。今までの自分を作文に書き、コンテストに応募すると全国大会にまでいくことになった。東京だったのに、当日は仲間がたくさん来ていて驚いた。友達が自分のすべてを受け入れてくれたことがうれしくて、生き方が変わった。アフガニスタンのことをアピールできる自分になっていく。そして、大学では、留学生のために何かしたくて、英語は話せないけど、気持ちで話した。そのうち、生きた英語として話せるようになった。その後、ワーキングホリデーでカナダに行き、働きながら英語を学んだ。多文化なカナダ人の友人がたくさんできた。昨年、就職した会社はアフガニスタン人が経営する会社で、日本語を話せる同僚は一人もいない。三つの言葉を使える自分にしかできない仕事で、やりがいがある」というお話の最後は2011年に大好きだったおじいさんが亡くなったので、はじめて里帰りをしたときのカプールの映像でした。お墓の掃除をする子どもたちの顔は、それぞれ肌や髪、目の色がちがっています。舗装されていない道を走ろうとする車に群がる子どもたちが、小銭をせびります。内戦前にはこんなことはなかったとムスターファさんは嘆いていました。
 質問に答えるムスターファさんからアフガニスタン料理の素晴らしさや、家族の絆、日本の文化を押し付けないで、たくさん話を聞いてくれた先生の存在を知ることができました。言葉も生活習慣も違う「別の星」からやってきたムスターファさんは、しっかりと自分の場所を作ってきた自信で輝いていました。素敵でした。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。