公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第79回 ラーフェンスブリュック強制女性収容所を訪ねて

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

ベルリンから北に80キロほどの場所に、ラーフェンスブリュック強制女性収容所があります。列車に乗り、一時間ほどで到着した駅周辺は旧東ドイツの美しい郊外の町でした。鉄条網と縞模様の道標を辿って、30分ほど歩くと中央に事務所、右手に湖とユースホステルがあり、左手に収容所の入り口があります。
 1939年に最初の囚人としてドイツ人女性が860人、オーストリア人女性7人が移送されてきました。第二次世界大戦によるドイツ領土拡大に伴い、増加する収容者は最終的には総計で23か国、12万3千人もの女性が登録されていたそうです。事務所の中は部屋ごとに写真や絵、工芸品などが展示されていました。ポーランド、フランス、チェコなどから移送されてくる女性たちが引込み線から降り立つ姿や囚人服を縫っている写真を見た後、えぐれたふくらはぎを持つ、生存者の女性の写真がありました。親衛隊高官の医師は15歳から25歳までのポーランド人女性たちの体から筋肉、神経、骨の小片を切り取り、その傷口から細菌の培養液を注入し、実験しました。激痛などお構いなしに骨が見えるまで切り開いた傷口に手で触れて見学していたという証言もありました。さらに、「ジプシー」と呼ばれた女性たちが不妊手術の実験台にされ、その中には8才の少女もいました。女性だからと手加減はなく、反抗すると監獄に入れられ、殴打などの拷問を受け、絞首刑、銃殺、毒殺という最期を迎えます。監獄を見学すると、猛暑なのに冷気が漂い、冬の厳しい寒さが想像できます。その横にガス室がありました。死体焼却炉の入り口の右手の壁の下に遺灰が埋められていて、たくさんの花が供えてありました。壁の横に立つ、二人の女性像の視線の先には湖があります。収容所とは別世界の美しい風景をどんな思いで見つめていたのでしょうか。
 収容所の外に出ると、生存者の女性が見学者に体験を語っていました。この収容所に、フランスのレジスタンスだった女性たちや、チェコのジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカもいました。書籍、「カフカの恋人ミレナ」(マルガレーテ・ブーバー・ノイマン著、平凡社ライブラリー)でミレナの存在を知ったのですが、彼女が生きていれば、ノイマンと一緒に強制収容所の実態を書くことができたのに。子どもの頃、収容所での生活を強いられた絵本作家のアニタ・ローベルは2002年に「きれいな絵なんかなかった―子どもの日々、戦争の日々」(ポプラ社)で、その過酷な体験を書いています。彼女のパートナーが「ふたりはともだち」の絵本作家、アーノルド・ローベルということも初めて知りました。
 この女性収容所で選別された女性たちが、「慰安婦」にされたという説明を展示の中に見つけました。1996年5月にNHKでも取り上げられた、「大いなる沈黙」というドイツ公共放送局の番組に出てきた、フーフェンバルト強制収容所で「売春宿」として建てられた小部屋の扉がパターンと閉まるシーンを思い出しました。収容所での女性に対する強制売春が50年もの間、封印されてきたという事実と重なります。
 案内して下さった「ベルリン女の会」の浜田和子さんから、幼い頃に収容所に入れられ、番号の刺青がなかった少女が亡くなった女性の番号をみんなから刺青してもらい、生き抜くことができたという話を聞きました。大人になった少女は番号をもらった女性がどんな人だったのか調べることで、感謝の気持ちを表したということです。極限状態にありながらも、シスターフッドで支えられた女性や子どもたちがたくさんいることを知り、その勇気に頭を垂れました。
たくさんの「無念の死」と向き合い、これからどう生きるのか、考え続けています。 

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。