公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第18回 夢をつなぐバトン

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

 私はドキュメンタリー・フィルムを観るのが好きです。ドキュメンタリーに登場する、人々の苦闘や生き方に感銘を受けるからです。実は過去に、三本のドキュメンタリー作品を制作したこともあります。久々に良い作品を観たいなと思っていたら、八月二〇、二一、二二日に開催された、「ヒューマンドキュメンタリー映画祭〈阿倍野〉二〇一〇」の最終日に参加することができました。コンテスト入賞作品や上映一二作品中、三作品しか鑑賞できなかったのですが、どれも素晴らしい作品でした。
「スクリーンのない映像」、ラジオドキュメント「元ホームレスのピアニスト」―釜ヶ崎から音楽を―(主演・合田清)では、音だけで映像が想像できるという新鮮な体験をしました。上映後の合田さんのピアノ演奏も素敵でした。
二〇〇六年、テレビで放映された「泣きながら生きて」(企画・張麗玲)を泣きながら観ました。文化大革命の時代、辺境の貧しい地域に長い間、下放された青年たちは、帰宅しても学業を続けることができず、すべての夢を諦めて、貧しい生活を続けるしかありません。そんな中、一人の男性が、妻と幼い娘を残し、単身で日本語学校への入学を決意します。夫婦にとって、一五年分の給料になる、四二万円の授業料を親戚、知人に借りまくり、勉学の希望を膨らませ一九八九年に、降り立った日本でしたが、現実は過酷すぎました。北海道阿寒町、元炭坑町の過疎化を打開するために作られた日本語学校で、アルバイトをして借金を返すことなど不可能です。青年は一人、北海道から東京に逃亡し、早朝から深夜まで、三つの仕事を掛け持ちして働き、稼いだお金のほとんどを妻と娘に送り続けました。ニューヨーク州立大学医学部に合格した娘は、トランジットで東京に二四時間だけ立ち寄り、父親と八年ぶりに再会します。不法滞在の父親は、成田空港の手前までしか見送れず、今度はいつ会えるのかという不安で泣き崩れます。それから四年後、娘のいるニューヨークを訪問する妻が、七二時間の東京滞在の機会を得ます。一二年ぶりに再会する夫婦の姿は、本当に感動的でした。文化大革命の辛い青年期に出会った二人は、どんな苦難も一緒に乗り越えようと誓ったのだそうです。三五歳の青年だった、夫の変容した姿に、妻は寂しさや苦労を読み取ります。娘も両親の思いに応え、産婦人科医になりました。元青年は阿寒町を訪れ、「逃げてごめんなさい。感謝します。」と手を合わせ何度も、お辞儀をして、上海へ帰国します。勉強したいという夢を娘に繋げるため、夫婦は自分を犠牲にしますが、時代も国も社会も人も恨まずに生きてきました。
私の回りにも、時代や「在日」という立場のせいで、夢をあきらめさせられた人がたくさんいます。誰かを恨む気持ちになるのは当然の状況の中で、自分にできる限りの努力を黙々とし続け、祖国の家族に仕送りをしてきた人がいます。苦労して大学を出ても、差別の壁が立ちはだかり、自己実現できなかった人もたくさんいます。理不尽なりと怒り、投げ出さず、自分の運命を引き受けて、自分らしく生きる姿に畏敬の念を覚えます。
小児ガンと闘う、子どもたちや医師たちの一〇年を記録した「風のかたち」(監督・伊勢真一)を観て、不治の病だった、小児ガンの八割が治るようになったのは、それまでに亡くなった子どもたちの闘いの記録があるからだと知りました。果たせなかった夢が、バトンとなってどんどん繋がり、今の私たちを生かしてくれているのではないか、という思いを強くしました。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。