公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第39回 40年後に理解できる叔母たちの思い

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

 五月のお休みに」韓国の親戚を訪ねました。父と年齢差があるので、私とは年長の叔母で一三歳しか違いません。父の妹たちと会うのは、かれこれ、一六年ぶりです。会いたかった従妹とは、二〇年ぶりに再会することができました。今回は釜山から叔父のいる大邱(テグ)で一泊し、大邱郷校(朝鮮時代の学校)や近代歴史博物館、小さなギャラリーが並ぶ鳳山文化通りや、薬令市を歩き、西門市場で大好きな韓国のお餅を買いました。近代歴史博物館では日本語の通訳サービスがあり、テグで初めて運行されたバスに乗り、日本が植民地統治していた頃の町並みを映像で巡ります。いとこたちが通ったという学校のレリーフにも、皇民化教育のようすが分かる写真がありました。
 テグからバスで一時間ちょっとで、年末に訪れた安東に移動しました。知人宅に一泊し、従妹が住んでいる、醴泉(イエチョン)に行くことになりました。バス停に迎えにきてくれていた、従妹と再会を喜びました。お互いが分かるか心配だったと従妹は言いますが、大丈夫でした。醴泉から車で三〇分、聞慶(ムンギョン)にある従妹の母親、叔母の家に着きました。歩くのが大変そうですが、元気な叔母と抱き合いました。六〇代後半だというのに、叔母の老け方は、厳しい人生を歩んできたことが証明されているようです。自給自足の生活ができる田舎暮らしが楽しいと言う、叔母の笑顔にほっとさせられ、懐かしい手料理と美味しい空気を満喫しました。
 感激の再会の翌日、いよいよ、「茶器祭り」でにぎわう、「聞慶セジュ」に出かけました。平襄(ピョンヤン)から釜山まで小高い峰々が繋がる太白、小白山脈の美しさ、新緑に浮かぶ、ピンクや白のツツジの花、流れる水は透明で、本当に絶景です。韓国内はもとより、海外の陶芸家も集まり、茶器や竹細工、自然染めなど伝統工芸が映画のセットの中で展示されていました。親戚たちも大集合して、美しい自然の中で語り合い、飲み、食べました。
 生まれて初めて故郷に帰ったのが、四〇年前です。高校生だった私は、親戚の輪の中に入っても韓国語が話せなくて、一ヶ月間、情けない思いをしました。その後、学習を続け、何度か訪問するうちに、ようやく、意思疎通ができるようになりました。四〇年前の思い出話を聞いていると、理解できなかったことや、知らなかったことが、鮮明になっていきます。戦後、二〇歳で再び日本に密入国した、父の長年の援助のお陰で高校を卒業できたと、涙ぐむ末っ子の叔母の話に聞き入りました。父親を早くに亡くした、四〇代の従妹が、大学の合格通知を手に、「私の人生を拓くために、援助してほしい。」と親戚たちに談判した話に感動しました。夜遅くまで、話は尽きることがありません。夜間中学で学校に行けなかった「在日」一世、二世の女性たちの指導をさせてもらったことがあるのですが、韓国にいた長女だった叔母が、読み書きができないことに気づかされました。「女は学校にいかず、家事をしろ」と言われ、結婚相手も親の言いなりだったと、叔母は悔しがっていました。もう一人の、私と歳の近い叔母の名前は正任というのですが、この名前が、私の本当の名前です。正任と康子が入れ替わったいきさつも聞き、驚かされました。
 言葉が通じるということは、こんなにも親戚たちとの距離が縮まるのかと、うれしく、もっと話したい、分かり合いたいという気持ちが高まります。楽しい時間は瞬く間に過ぎ、見送る親戚たちと次の再会を約束し、別れました。醴泉から釜山まで、無窮花号で四時間の列車の旅です。釜山では版画家、イ・チョルスさんの展覧会に出かけ、映画「コリア」を観ました。とても、良かったです。
 帰宅した後も、美しい故郷の風景が頭から離れません。「在日」一世たちが、いつも故郷のことを思い出し、帰りたいと言っていたことが納得できます。帰る場所があるという、幸せを噛みしめ、また、日本で頑張ろうと思います。今度は、一二月の「キムヂャン」の頃に、叔母の所で「田舎ステイ」を体験したいと思います。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。