公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第92回 語り継ぐオーラル・ヒストリー

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

今まで、たくさんの女性たちの聞き取りをすることができました。被差別部落の高齢の女性たちの話を、はじめて聞いたときの衝撃は今でも忘れられません。極貧の中での食事は働き手が優先され、いつもお腹をすかせていたことや、お弁当を持たせてもらえない学校での昼食の時間が辛かったことなど、親を恨んだ日々と共に、ごくたまにご馳走にありつけた幸せな思い出も聞かせてもらいました。彼女たちにとって「部落差別」という言葉を知らなかったときは、親きょうだいが最初の敵だったと言います。
 「ひょうご部落解放」で連載した(1999年~2001年)「『女から女へ』解放運動の中の女性」で、在日朝鮮人や被差別部落の女性たち、10人の半生を聞き取りました。語ることのなかった個人の歴史を歴史的事件にはめて検証し、参加者それぞれの問題意識から質問や意見交流をするという会だったのですが、文献にはない貴重な話や、本人も気づかなかった事実にもでくわし、毎回、まとめるのが楽しく勇気が出る内容ばかりでした。
 私より10年先輩の女性は、68年に兵庫県立湊川高校での「育友会費不正使用」糾弾闘争に参加していたときの話をしてくれました。彼女は「部落差別」は言えるけれど、「女性差別」という言葉が腑に落ちないと言っていた人です。闘争のときに朝鮮人や中国人の学友とも出会い、差別に苦しめられているのは自分たちだけではないことに気づきます。結局、学業半ばで嫁ぎ先に気を遣い断念するのですが、それが女性差別ではないのかという、私たちの問いかけに、これが女性差別だったのかと絶句します。
 私の友人が高校の就職指導の先生にも朝鮮人は無理だと相手にされず、地元の女子は誰も行こうとしない劣悪な労働条件の会社に就職したときの話を聞き、国籍条項には引っかからないが、就職してからの差別がひどく、仕事が続けられなかった人もたくさんいるという話もでました。
 自分たちは学校に行かせてもらえた世代だが、多くの女性たちが男きょうだいの学費を残すために進学を諦め、働いたという話もよく聞きます。被差別の立場で、女性という属性は「生まれて良かった」と無条件に喜べないのです。だからこそ、自分と同じ苦労をするのなら、子どもを産みたくないという気持ちになったり、結婚差別に遭うくらいなら一人で仕事を持って生きたいと思ったりするのは当然です。しかし、就職できなかったり、仕事が続けられなくなったりという厳しい現実が立ちはだかっています。
 苦境に立ったとき、「なるようになるさ」と笑い飛ばせる強さは一世の女性たちの生きる術でした。祖母は高校の進路相談で朝鮮人は大学にいっても無駄といわれ落ち込む私に、「ご飯たべよう。お腹が空いていたらアカン」とたどたどしい日本語で励ましてくれました。美味しいものを食べると、気持ちが楽になり、良い知恵も浮かびます。でも、とっさの知恵は何もないところからは生まれません。知識という日頃の蓄えがあってこそ、搾り出せます。日本語の読み書きができなかった祖母たちは、生き抜くための知識を出会いや体験、記憶によって得てきたにちがいありません。
 その後、聞き取りは朝鮮人を親に持つアイヌの女性たち、外国から日本に来た女性や、外国人男性と結婚した日本人女性にも広げることができました。私にとっては、得難い体験でした。
 多様なこどもたちが外国からきた親たちの「オーラル・ヒストリー」を聞くためには、言語の問題、自分のアイデンティティーを受け入れられるかどうかという問題、そのアイデンティティーが多数者からどう見られているかという問題など、超えなくてはいけないハードルがたくさんあります。だからこそ、親は子に胸を張って語ってほしいし、子は親を尊敬してほしい。忘れ去られる歴史を語り継ぎ、こんな人たちがいたということを残していきたいと思います。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。