第69回 「臭い」の記憶
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
その国の記憶に残る、「臭い」があります。新しくなる前の空港に降り立つと、韓国はキムチの臭いがしました。北京はザーサイの臭い、コリアンダーの臭いがしたのはタイだったと思います。外国に入国すると、まず、臭いの洗礼にあいます。以前はチーズが苦手でしたが、ヨーロッパに行くと毎日出てくるので、そのうち美味しいと思うようになりました。「臭いに順応できるかどうかが、人生を広げる鍵」というのは言い過ぎでしょうか。
「世界の臭くて旨いもの」のほとんどが、発酵食品です。納豆、キムチ、ブルーチーズなどの保存食は先人たちの素晴らしい智恵です。しかし、臭いへの偏見は生活の中にたくさん潜んでいます。最近、日本で一番食べられている漬物は断然、キムチですが、「キムチ臭い」と虐められた「在日」一世や二世たちがたくさんいます。臭いを気にしないで、キムチを食べることができるのは、日本人。私も臭いには敏感になり、週末にしかキムチは食べませんでした。
京都駅の近くに住んでいた祖母の家を訪ねると、いつも何とも言えない臭いがしました。皮革工場の見学に行ったときの、塩漬けされた皮の臭いと同じでした。そうか、皮革工場がたくさんあったのかと、思い至りました。祖母が営んでいた養豚場の臭いと、皮革工場の臭い、時には染色工場の臭いがする「在日」が暮らす町でした。
東京オリンピックが開催された1964年に、東海道新幹線が開通しますが、祖母の養豚所のすぐ上を走ることになり、景観が良くないので立ち退くという話が浮上しました。結局は祖母の家までは、波及しませんでしたが、ほとんどの人たちが町を離れました。いつの間にか、臭いもなくなり貧しい人たちが寄り添って生きていた歴史が消えてしまいました。残っているのは写真だけです。廃材を駆使して作った、バラック小屋は川の上に建てられ、雨漏りがしました。ようやく、水道やガスが引かれ、建て増しされた祖母の家で、長い休みになると、よく寝泊りしました。かんてき(七輪)に火をおこし、おでんやすき焼き、ホルモン鍋など、みんなで美味しく食べました。朝鮮人だったので保障が遅れた祖母の家も、市営住宅に転居となりました。10数年前に一度、祖母の家があったあたりを歩いてみましたが、見事になにも残っていません。京都タワーだけが、当時と同じように見えていました。
日本人の住宅地で生活するようになった私にとって、祖母の家の臭いは、朝鮮人として、伸び伸びできる貴重なものだったのです。日本の学校に行くようになって、自分の家や民族の臭いを恥じるようになったのは、「ここは日本だ。日本のもの以外は認めない」という考えが刷り込まれた結果です。独自の文化を持って日本で生活している人たちが、同じ仲間として生きていける町は、互いの文化が溶け合い、影響し合い、どんな人でも懐かしく、安心できる臭いがするのではないでしょうか。
どこの国でも、多民族が混住し、多様な生活スタイルが混在している町には、たくさんの臭いがあり、美味しいものや素敵なものがあります。子どもたちがつくるまち「たぶんかミニとよなか」が、今年はどんなまちになるのか、楽しみです。
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。