公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第63回 平和学習ができる平和な国

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1945年8月6日広島に、9日長崎に原子爆弾が炸裂してから今年で、69年になります。毎年、6年生は修学旅行で広島を訪れ、平和の大切さを胸に刻んできました。
 修学旅行の原型となったのは1886年(明治19年)で、軍隊にならった「行軍旅行」に史跡探訪や生物や鉱物の標本採集を取り入れたものだったそうです。元々が軍事教練のような意味合いがあったので、銃や背嚢を背負い、学校や寺院に泊まり、自炊しながら歩くというものでした。戦時下体制の元では、伊勢神宮や橿原神宮、厳島神社という国家神道教育に通じる神社、仏閣などを訪問する修学旅行が行われていました。戦況悪化で中断されますが、1959年頃には「修学旅行専用列車」が登場し、再開されるようになります。
 池田市でも、それまでの伊勢訪問から、広島へ平和学習の修学旅行に変更されたのが、20数年前だったと記憶しています。ちなみに、57年生まれの私の修学旅行も伊勢でした。小学校で仕事をするようになって、ようやく広島の原爆資料館を見学することができました。「佐々木禎子さんの折り鶴」や「人が焼かれて黒くなった石柱」など、遺品の数々やたくさんの写真に圧倒され、一瞬で廃墟となる原子爆弾の恐ろしさを思い知らされました。
 1996年、「原爆ドーム」がユネスコ世界遺産に登録されました。負の遺産を撤去して、新しい広島を作ろうという意見に真っ向から反対したのが、「原爆一号」とアメリカのジャーナリストから報道された、吉川清さんです。「傷だらけのドームの姿は自分の背中のケロイドと同じ。二度と戦争を起こさないためにドームを保存してほしい」という吉川さんたちの運動が世論を動かし、現在も広島のシンボルとして見ることができます。
 吉川さん夫婦は自宅の前で被爆。住む家もなく、仕事もない、病気の体を抱え、原爆ドームの前にバラックを建て、土産物を作って生活します。観光客に自分の背中のケロイドを見せ、原爆の酷さを訴えました。貧しさと差別、偏見に苦しむ、被爆者の家を訪ね歩き、初の被爆者協会を作り、政府に治療や生活支援を訴えたのも吉川さんでした。吉川さんたちの運動を知り、在韓被爆者の人たちも運動をおこしました。1986年、74歳で亡くなるまで、病床にあっても平和運動を生涯貫いた人です。清さんの遺志を継いで活動されていた、生美さんのお話を6年生の子どもたちと一緒に聞けたのが、15年前です。どの子も、真剣な眼差しで話を聞いていた姿が思い出されます。今年の6年生に吉川さんの話をしようと準備をしていると、生美さんが昨年12月に92歳で亡くなられたこと知りました。10年ぐらいお会いしていなかったのですが、日本や世界の現状を嘆いていらっしゃったのではないかと、悲しい気持ちになりました。
 今の子どもたちにとって、放射線の被害は過去のものではありません。福島原子力発電所の事故の影響は、計り知れない恐怖があります。臭いも色もない放射線が人体にどんな悪影響を及ぼすのか、今後の予測や予防は困難です。日本は戦後69年間ずっと、反戦を貫き、平和学習ができる世界に類を見ない国です。そんな日本がこれからどんな国になっていくのか、とても心配です。外国にルーツを持つ子どもたちが、2つの国の板ばさみになって苦しむ姿を見ることになるのでしょうか。「二度と、自分たちのような原爆の被害者をだしてはいけない」と訴える吉川さんの映像を子どもたちと見ながら、毎年、平和学習を続けるぞと決意を新たにしました。平和学習ができなくなることが、本当に恐ろしいです。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)