公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第62回 絶叫する東アジア

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

ずっと、会ってみたいと思っていた人にようやく会うことができました。新宿での待ち合わせの場所に、その人はやってきました。韓国の画家、洪成澤(ホン・ソンダム)さんです。1980年5・1軍部クーデターに抵抗する韓国、光州市民の闘いをゴム版画で残し、知らしめた芸術家です。「絶叫する東アジア―芸術家の役割」スライド上映とトークの狭い会場は人で溢れかえり、5月民衆抗争とは何だったのかを、版画作品を写し、詩を朗読しながら紹介されました。「光州の闘争を民主主義の闘いとよく言われるが、私たちは民主国家を知らなかったので、ただ、横にいる友人や家族が政府軍によって襲われ、殺されたことへの怒りだけだった。特殊部隊を追い出して、包囲され、孤立を強いられたとき、無政府状態になった市民たちは市長がいなくても、警察がなくても、自分たちの手で町を運営した。学校も開いていた。人のものを盗む者はいない。食料もみんなで分け合い、誰も困らなかった。軍に制圧されるまでの5日間は、本当に自由だった。民主主義というものを生まれて初めて体験したのだった。いよいよ、軍が道庁に突入するという前日、高校生や中学生を帰宅させた。みな、一緒に闘いたがったが、語り継ぐ人間がいなくなると困ると説得した。」お話を聞いていると、34年前の光州市民たちの姿が蘇ります。「国家転覆を図る暴徒」「共産主義者」というデマを流され、幼い子どもまでもが虐殺の対象になってしまいます。犠牲者が眠る墓地には、10代の子どもたちの写真の横に菓子などが供えてあり、胸が詰まったことを思い出しました。
 光州の虐殺に関する写真を一枚も持っていなかった洪さんは、その苦痛と悲劇を韓国内や世界に知らせるために版画の制作を思いつきます。刷られた「5月連作版画」は外国に送られ、展示され、光州の真相を明らかにしてほしいという洪さんたちの願いが叶えられていきます。新聞も放送もなかった5月抗争で、みんなで新聞を作り、文化宣伝隊として闘争に参加した洪さんは、その後も「市民美術学校」を開設しながら活動しますが、89年に拘束され、3年間の獄中生活を送ります。92年に釈放された後の、拷問による自分の中のちがう自分、夢の中の自分を記録した作品も見せてもらいました。「拷問をされる自分と冷ややかに見る取調官たち」「走っても、走っても、大きな蛇に追いかけられる自分」「ようやく監獄から出ても、自由にものが言えない監視社会が待っている」洪さんの説明を聞きながら、日本軍「慰安婦」だと名乗りを上げられた、ハルモニたちの絵を思い出しました。彼女たちも、絵を描き、写真も何も残っていない自分たちの被害体験を残しました。辛い過去を思い出す作業ですが、たくさんの人たちに共感してもらえると、癒されるのだと思います。洪さんに、夢の絵を描くのはセラピーなのですねと確認すると、深く頷かれていました。
 洪さんは、東アジアが戦争を起こさないようにと韓国政府を監視し、靖国神社に関連した作品を制作しています。拷問で傷ついた眼で、毎日精力的に描き続けています。芸術家は社会を変革できるという確信を、お話や力強い握手で感じることができました。光州抗争のとき、ニュースを見ながらテレビの前でドキドキしていました。集会やデモにも参加しましたが、民主化されるかも知れないという期待と挫折は、当事者性の薄いものでした。洪さんを目の前にして、足元が揺らぎます。「韓国に住んだことがない私が、韓国人だと言えるのか」という迷いが舞い戻って来るのです。韓国でも、日本でも、自分が改革の主人公になれないという悩みをずっと、持ち続けているからです。 
 洪さんお薦めの、朝鮮戦争時の済州島4・3事件の映画「チスル」を観て、虐殺の傷跡が残る朝鮮半島の歴史を、日本で生まれ育った私はどのように考えればよいのかと、ますます、気持ちが沈みました。恐怖に絶叫する日常でなくても、不安がつきまとう日本での生活が浮かび上がります。
 自由区光州を経験した洪さんは、民主化のために後戻りはできないと、どんどん新しい活動をはじめています。これからの安心のためにも、みんなで絶叫して平和を求めていきたいです。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。