公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第54回 「在日」サラムと藝術

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

 今年の夏のフィールドワークは「喫茶美術館」を訪問し、お話を伺いました。
東大阪の近鉄河内小坂駅から司馬遼太郎記念館を見学し、戦争中焼けなかった細い路地裏を歩くと、美と味の喫茶店、「喫茶美術館」があります。重厚な松本民藝家具が置かれた店の壁には、一九七一年から連載された、「街道をゆく」の挿絵で有名な須田剋太の抽象画がたくさん展示されています。そして、縄文土器複製の経験と朝鮮で花開いた「象嵌(ぞうがん)」を融合させた「縄文象嵌」という独自の技法を生み出した、「人間国宝」、島岡達三の陶器作品が並べてあります。「喫茶美術館」のオーナーは「在日サラム3世」を自称する、詩人の丁章(チョン・ヂャン)さんです。「サラム」とは人という意味の朝鮮語です。
 暮らしの中の美術品を評価する民藝運動は、朝鮮の陶器への開眼をした、柳宗悦が中心になり一九二六年(大正一五年)から開始され、現在もその活動が続けられています。丁章さんのお父さんは、民藝運動に出会い、島岡達三の作品蒐集をはじめます。そんなある日、事業に失敗し、東京での暮らしを捨て、帰りたくなかった東大阪で、お好み焼きの店をすることになりました。生計を支えるため、小学生だった丁章さんも一生懸命、お店を手伝ったそうです。お店も軌道に乗り、たまたま知り合った司馬遼太郎に須田剋太の絵を買いたいので、紹介してもらえないかと打診します。話を聞いた須田剋太が、「在日」のお好み焼き屋さんが自分の絵を欲しがるなんて面白いと、たくさんの作品を寄贈してくれました。一九八八年、須田剋太の作品を展示するための、「喫茶美術館」を開業します。
一九六八年、京都生まれの丁章さんは七五年から東大阪の小学校に通います。通称名で生活する両親から、小学校三年生のときに朝鮮人であることを知らされ、「みんなと違うことがうれしい」と翌日すぐに学校の友だちに打ち明けました。両親に報告すると、怖れと不安で引きつった顔をされ、朝鮮人だということは隠さないとだめだと思いはじめます。小学校六年生になると、クラスメイトから「お前、朝鮮人やろ」とからかわれ、本名を名乗る決心をします。担任の先生に相談すると、「ちょっと待って」と躊躇され、思いあまって、「壁新聞」にクイズ形式で朝鮮人であることを明かしました。その時の解放感は素晴らしく、ペンの力はすごいということを発見します。
 中学校では、信頼できる日本人教師と出会い、民族学級を一緒に設立します。民族意識が高まり、朝鮮語を学ぼうと大学受験しますが、結果的には中国語学科に進学することになりました。一九九八年に初めて、詩集を出版したのを機に家業においても、本名を使用することを決意します。「お父さんは生まれ育った東大阪を好きになれなかった」という言葉に、同世代の「在日」の多くが、差別や排除を受けた嫌な思い出のある、日本の故郷を好きになれないのだと思い当たりました。「自分は東大阪を愛せる故郷にしたい」と丁章さんは詩を書き、喫茶店を経営し、地域の人たちが集い語り合える企画を考え、「喫茶美術館」で、たくさんの学習会や演奏会、上映会等を行っています。
 中国で朝鮮族の文学者たちと交流したときに、「有名になりたい文学者は北京語で作品を書くが、私たちは朝鮮語で自分たちが生きてきた歴史を表現することが大切なのだ。評価されることなど期待しない」という話を聞き、丁章さんは感動したそうです。「在日」の私たちは日本語で表現します。本国の人たちからも、日本人からも「在日」の文学は注目されないという、歴史が長く横たわっています。「在日」の私も「在日」文学は苦手でした。惨めな生活や苦悩を読むのはしんどいし、「これだ」と思える人物像に、なかなか出会えませんでした。丁章さんから、「民族学級で文学者や芸術家を輩出するような、教育ができないものか」と問われ、考え込んでしまいました。「在日」の芸術家の数は本当に少ないのです。表現の世界で、私たち「在日」はいないものとされてしまう経験がたくさんあります。国籍に関係なく「在日」サラムとして、独自の文学を創造していこうとする考えに刺激を受けました。そして、丁章さんの詩集を読んで、懐かしく新鮮な「在日」を見つけることができました。「在日」文学を見直そうと思います。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。