公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第6回 アツイ夏はフィールド

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

毎年、夏には池田の仲間でフィールドを企画しています。いままで、朝鮮通信使の足跡を訪ねたり、戦争中、朝鮮人が掘らされたというトンネルに潜ったり、いにしえの歴史を探訪したりしてきました。
 今年はずっと気になっていた、大阪国際空港の中にある中村地区と伊丹朝鮮初級学校を見学しました。飛行場の中にある朝鮮人部落は、戦争中、大阪第二飛行場(現在の大阪国際空港)の拡張工事(一九四一年)に伴って形成されました。労働力不足を補うため、強制連行された朝鮮人労働者、約千人の名簿が伊丹市立博物館に保存されていることも明らかになっています。祖国の解放後、ほとんどの朝鮮人が帰国しましたが、本国に生活基盤がなく、その後、勃発した朝鮮戦争の影響もあり、帰るに帰れなくなった朝鮮人たちが住み続けます。また、炭坑閉鎖のため九州から移り住んだ労働者や広島、沖縄の人たちがたくさん中村地区に住むようになりました。砂利をふるいにかける、養豚、土木の仕事などのその日暮らしが続きますが、一九七〇年の大阪万博の時には人夫仕事がたくさんあったそうです。好景気を迎えた日本でしたが、空港の中の住宅は戦争中と変わらない生活環境でした。
「生活していて一番困ったことは、浄水と電話がなかったことだ」と、案内して下さる朱(チュ)さんは話されます。ずっと、井戸を掘って飲料水にしていましたが、池田市が汚水処理のため井戸を枯らしてしまいました。池田市はその責任をとって費用を負担し、伊丹市に依頼して一九七四年に浄水施設ができました。最初は四軒だけに水道が引かれ、水道メーターも共同だったので、トラブルが絶えなかったのですが、なんとか工夫して百軒全部に水道を入れることができました。しかし、下水施設はずっとありませんでした。このことが、近隣に住む日本人から疎ましがられる原因にもなったそうです。
 火災が頻繁におこっても、電話がないので消防署に連絡もできず、焼け野原になるばかりでした。火事のせいで、空港の飛行機が止まることもあったようです。バラックが焼けてしまうと、国有地なので家を建てるなといわれますが、一晩でまた建てる、といういたちごっこだったそうです。ニットの服を縫い合わせる「リンキン」など、家内工業をしている人が多かったので、電話がなくては注文をとることも困難です。 住民が力を合わせ、伊丹市や日本政府に訴え、ようやく、公衆電話が二台設置されました。朱さんが連絡係になって、インターホンを使って、電話内容を知らせていましたが、七六年にようやく一般電話が入ったそうです。
 一九九〇年には日本政府から環境整備のため、立ち退き勧告が出され、二百数十回の会合を重ね、七年という早さで移転問題は解決します。市営桑津住宅に住民たちは転居し事業主にも補償がされました。
朱さんをはじめ、中村地区に住む、「在日」の子どもたちのほとんどが、朝鮮学校に通いましたが、なかには池田市内の小学校に通学していた子どももいました。差別が厳しい時代に、その子どもたちがどんな扱いを日本の学校で受けていたか、思いを馳せずにはいられません。また、劣悪な環境の中で、「在日」の人たちが生活を切り拓いていく、知恵と力には尊敬の念を覚えます。一晩で建てた、不法住宅の話も父から聞いたことがありますが、他人をあてにしないで、全て自分たちの力でなんとかしてきた私たちの先輩に、励まされる一日になりました。
 フィールド終了後、中村地区の焼肉屋さんで、冷えた生ビールで乾杯しました。これも夏のフィールドの楽しみです。(二〇〇九年九月号掲載)

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。