公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第22回 語れることがある幸せ

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「小学校に行く七歳まで、私はどこにも登録されていない子どもでした。」という三木・パンガヤン幸美さんの言葉に、子どもたちは困惑しています。家族の生活を助けようと日本にやってきた幸美さんのお母さんは、オーバーステイのまま幸美さんを産みました。警察や役所の目を逃れ、病気になっても健康保険がない、不安定な生活を送り、ついに幸美さんは就学年齢になります。お母さんの入籍や、いろいろな人たちのサポートで、日本国籍を取得した幸美さんは、「留学生扱いにする。」からようやく、隣近所の子どもたちと同じように小学校に入学することができました。
 実は五三歳の私も、一九歳の幸美さんと同じでした。小学生だった父は一九四四年、祖国に帰国できたのですが、朝鮮戦争の後、再び日本に密入国し、家族にお金を送り続けていました。母と結婚し、私が生まれる前に、入国管理局に自首し、在留権を得たのです。五〇数年前には、こんなことが日常の「在日」の風景でした。
 幸美さんの授業は続きます。九歳で初めてフィリピンを訪問し、三木姓になった幸美さんは、おじいさんから「パンガヤン」の名前は嫌だったのかと問われ、自分のルーツについて考えるようになります。学校には民族学級はあったのですが、支援されているのは韓国人や朝鮮人の子どもたちで、少人数のフィリピンの子どもたちには及んでいませんでした。そして、一四歳の時、在日韓国人の幼なじみから「外国人、自分の国に帰れ。」と言われ、気持ちが凍ります。「言ったほうも、同じ立場なのに、なぜこんなことを言ったと思う?」という幸美さんの問いかけに、子どもたちは「自分も言われたから?」「言われるのが怖いから、先に言った?」と、その子の立場になって考えています。自分は人権学習を受けてきて、理不尽な発言に対して、すぐに言い返せると思っていたのに、全然だめだったと悔しがる幸美さんは、その後、フィリピンにルーツを持つ仲間と民族舞踊をはじめます。同じ立場の仲間との居場所づくりが大切だと、現在もダンスを通じて繋がりを持っているそうです。
 そして、進学した府立高校での「学校開き」で、自分のルーツや家の事情など、一番しんどいことや、自分が頑張っていることを全校生徒の前で話す、先輩たちの姿に出会います。「なんで、そんなに辛いこと、隠したいことを堂々と言えるのか。」と衝撃を受けた幸美さんでしたが、自分も先輩のように語れる人間になりたいと思うようになります。自分だけが、みんなと違うという思いが解け、誰もが、課題を持ち、立ちはだかる壁をよじ登っていることが理解できた瞬間でした。そして、自分が発信することで、誰かを元気にできるのではという思いになったそうです。
 しかし、どんどん前に出る幸美さんを、快く思わない友人もおり、無視されるという事態にも直面させられます。「自分がリーダーになれば、みんなは黙ってついてきてくれると思ったのが大きなまちがいでした。」と語る幸美さんを、子どもたちは食い入るように見つめています。きっと、友達との関係を重ね合わせながら、聞いていたのだと思います。
 授業では、思いつきや、お話と関係のない質問をしないように、事前に子どもたちに、「感想を述べてから、質問をする。」「自分のことを伝えてから、質問をする。」「話してもらったことを確認して、質問する。」という三つの質問のパターンを実際に見せたり、練習したりして、お話を聞きました。じっくり考えて、質問ができるように、書く時間や、グループで話し合う時間をお話の間に保障し、担任をはじめ先生たちが声を掛けながら、子どもたちの思いを引き出すようにしました。そして、子どもたちが振り返れるように、模造紙に手書きで、一九歳までの出来事を書きながらお話をしてもらいました。
 子どもたちの質問は、「フィリピンのおじいさんに、言えなかった思いは伝えたのですか?」「いじめられたとき、先生や親に相談しなかったのですか?」「守ってくれた友達と今でもつながっていますか?」「幸美さんの夢はなんですか?」と、幸美さんの思いをより深く、聞き出そうという思いが伝わるものでした。
 また、「いじめに負けない幸美さんを尊敬します。」「学校の先生になる夢を頑張ってかなえてください。」とまっすぐに幸美さんの顔を見て、発言していました。今まで見たことのない子どもたちの表情や、意見を知ることができた貴重な時間になりました。
 語ることがたくさんある、韓国大好きの幸美さんの姿は、私たちの希望です。これからも、「私は私でいいんだ!」と、自分を語れる子どもたちを増やしていきたいです。

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