第23回 「在日」の家族写真と韓国で再会してきました
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
昨年の一二月、七年ぶりに、韓国にいる叔父夫婦に会うことができました。前回は「テグ地下鉄放火事件」があった、二〇〇三年二月一八日のあとでした。死者一九二名、重軽傷者一四八名という大惨事でしたが、叔母は、同日の数分前に地下鉄に乗っていたので、少し遅れていたら、被害者だったと話していたのを思い出しました。
今回はまず、ソウルから高速バスで三時間、儒学の古都、安東まで出かけました。ほとんど、人がいない、陶山書院(トサンソウォン)をゆっくり見学し、ここで、たくさんの若者たちが勉学に励んだのだなと、いい加減な我が身を戒めました。
タクシーで移動し、登った山上から、蛇行する河に囲まれた「河回マウル」を眺めました。絶景です。一瞬の夕暮れ、「冬茜」を観ながら、その日は、世界遺産になった村、「河回マウル」の伝統家屋に宿泊しました。夕食は、名物の塩さば定食です。炭火で焼いた塩さばは絶品で、キムチをはじめ、盛りだくさんの野菜料理を食べ、満足しました。帰りに空を見上げると、星が輝いています。星あかりを頼りに、伝統家屋の中を歩いていると、まるで、朝鮮時代にタイムスリップしたような気分になります。柳(リュウ)氏によって、六〇〇年以上、代々受け継がれてきた村です。
オンドルがなければ、凍えそうな小さな民宿を後にし、翌朝早くバスに乗りました。目指すは二つ目の世界遺産、海印寺(ヘインサ)です。一三世紀に、お釈迦様の経典の全てを記した、八万一二五八枚の版木が、そのまま、現在まで保存されています。伽耶山、海印寺の入り口にバスが到着すると、すぐに声を掛けてきたおばさんがいました。美味しいキノコ鍋があるので、食べないかと言うのです。山菜やキノコは伽耶山の名物です。お腹も空いていたので、誘いに乗ることにしました。肉厚の椎茸、エリンギなどがたくさん入った、美味しい鍋でした。食べるほどに、体が温まり、程よい辛さです。韓国料理の醍醐味は、種類の多いスープと鍋だと私は思います。厳しい寒さでも、体の芯から温めてくれるのです。そして、なんと言っても冬のキムチに勝るご馳走はありません。二度目の海印寺でしたが、冬の趣もなかなかのものでした。
一時間半で大邱(テグ)に戻ると、叔父が待ってくれていました。ちょっと、老けたかな?と思いながら「サムチョン!」と声を掛けると、満面の笑みで両手を握ってくれます。叔父の家では、早めの夕食が用意されていました。韓国人は来客には必ず、食事をしてもらうのが礼儀です。ましてや、幼い頃からずっと世話になってきた、長兄の娘が日本から来たのだから、尚更です。叔母やいとこたちの近況を聞き、日本にいる私たちの様子も知らせると、やはり、アルバムが出てきました。
生まれて初めて帰国した、高校一年生の夏休みに見た写真です。当時はほとんど、韓国語が分からず、一ヶ月も故郷にいるのは、苦痛でした。韓国を「遅れた国」としか思えず、弟たちと日本に帰る日を指折り数えていました。そんな私たちを見て、叔父がアルバムを見せてくれたのです。私の家族の歴史がすべて、貼り付けてあるのを見て、どれほど驚いたことか。父の幼い頃の写真がありました。日本での朝鮮式の結婚写真からはじまって、私が生まれた時や、弟たちが赤ちゃんだった時の写真もありました。両親が初めて購入した家や車、私のピアノの発表会、入学、卒業と節目の時の写真があります。写真でしか知らない、私たちのことを大切に思っていてくれたのだな、と胸が熱くなったのを今でも覚えています。
もう一度、古い家族写真を見ながら、思い出話に花が咲きました。「四〇年前は、今のように母国語が話せず、顔を見合わせるだけだったね。」と目を細める叔父夫婦の言葉に喜んだものの、まだまだだな、と自分の語学力のなさを思い知らされます。
地道な努力を続けるしかないなと思いながら、次回はいとこたちに会って、話をしたいと思いました。祖父と祖母が亡くなり、父も高齢になった今、韓国の親戚たちと繋がることが、とても大切に思えます。これからもずっと、日本での生活に疲れたとき、私たちを暖かく迎えてくれる祖国であってほしいです。
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。