第41回 映画から知る意外な事
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
「いわさきちひろ」というと、愛くるしい子どもの挿絵が思い浮かびます。それほどの思い入れもなく、よく眺めていた絵でしたが、輪郭のない水彩画で描かれた、「戦火のなかの子どもたち」は衝撃的でした。
昨年夏、安曇野の「ちひろ美術館」を訪れたときに、美しい風景や私が子どもだった頃の懐かしい原画を見たあと、ちひろの年賦を読むと、意外なことが分かりました。結婚してすぐの、大連での生活と夫の自殺。敗戦間近の旧満州に、書道の先生として女子義勇隊に同行し、戦況が思わしくないので、六ヶ月で帰国したこと。父親は陸軍の技師で、母親は女子義勇隊を中国に送った戦争協力者でしたが、戦後すぐに、ちひろは日本共産党に入党しています。そして、東京で「人民新聞」の挿絵を書くことになり、この時に出会ったのが、「原爆の図」を描いた、丸木俊でした。テレビの美術番組で、再婚した夫を支えるため、幼子を信州の実家に預け、売れる絵を描く、ちひろの苦悩の深さを知りました。そして、水彩の滲みで表現する、独特の作風を作り上げたとき、病魔に襲われます。
一九七四年、八月八日、五五歳で他界した、ちひろのドキュメンタリー映画、「いわさきちひろ~二七歳の旅立ち~」が上映されています。七一年生まれの海南友子監督は、三年に及ぶ取材を敢行し、ちひろと交流のあった人たちから、埋もれていたエピソードを掘り起こします。映画の中では、公開されたことのない、原画を見ることもできました。二七歳で絵の道で生きることを決意し、上京した直後の「顔をおおう自画像」と、ちひろの童画は結びつきません。また、労働者のデモや生活を描いた、「人民新聞」の挿絵を見ると、柔らかい線で、どこかほっとするのですが、当時は仲間から「あまい」と叱責されていたそうです。中国戦線を描いた小磯良平の戦争画を見た時に、やはり、小磯良平の雰囲気だなと思ったのと同じ感覚でした。そして、挿絵画家の地位向上のために、童画界の著作権確立に貢献した彼女の努力と信念には、頭が下がりました。出版社に原画の返還を求めることによって、仕事が入らなくなっても、屈することはありませんでした。
「まだ死ねない、もっと描きたい。」が最期のことばだったそうですが、健在であれば、昨年の東日本大震災の原発事故やイラクやアフガニスタンの子どもたちを、ちひろはどう表現したのでしょうか。また、彼女にとって、中国とはどんな国だったのでしょうか。残留させられた日本人と自分が、地続きだったという思いもあったのでしょうか。海南監督は昨年、震災後の福島第一原発四キロ地点まで赴き、撮影をした直後に妊娠し、出産しました。自分の出産と放射能をテーマにした、短編ドキュメンタリーを発表する予定だそうです。注目していきたいです。
私は今年、ちひろが亡くなった年齢と同じ、五五歳になりました。これからの人生、どれだけ切実な思いで、生きることがきるのでしょうか。映画を見終わって、二〇年近く中断している、三本目の、ドキュメンタリー映像をつくりたくなりました。
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。