第47回 希望のない所に希望の種を
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
五歳か六歳の時に、箱形の白黒テレビが家に来ました。たぶん、一九六二年の受信契約者一千万人の頃だったと思われます。六三年、最初の衛生中継として流されたのが、「ケネディー暗殺事件」でした。六四年の東京オリンピックの中継は、家族全員で観ていました。私が好きだったのは、「鉄腕アトム」や「ひょっこりひょうたん島」、「ウルトラQ」といった番組です。そして、「ライオン・キング」に似ているとよく言われる、六五年の初のカラーアニメ、「ジャングル大帝」の映像の美しさと雄大さに感激したことも覚えています。
昨年末の一二月二三日に放映された、「こころの時代~宗教・人生~小さき者に導かれ」は秀逸なドキュメンタリーでした。東京の高麗美術館の理事で、牧師の東海林勤さん(一九三二年生まれ)は、早稲田大学、信愛学舎の舎監だったとき、七一年の「徐兄弟事件」に関わります。そのきっかけを作ったのは、「民族的自負心を持って生きたい
と、祖国に留学した徐勝さんと徐俊植さんが『在日』だから、ひどい目に遭っている。(『在日』を排除してきた)日本社会、我々の責任だ。軍事独裁政権下の韓国の人たちは動けない。動けるのは、原因を作っている自分たちだ。」と「徐兄弟を救う会」を立ち上げた学生たちでした。
弟の京植さんは事件当時、早稲田の学生でした。韓国の大統領選挙を前に「北のスパイ」として逮捕された徐兄弟に対し、「在日」の仲間も、あまりのショックと恐怖で立ちすくむ人が多かったのです。信者ではない京植さんが、キリスト教者のネットワークに支援を訴え、すぐに呼応してくれたのが東海林さんでした。七一年一二月、初めての日本人面会者としてソウル西大門拘置所を訪れます。その後、徐兄弟が釈放されるまでの二〇年間、救援活動を続ける中で、韓国の民主化運動の先頭に立つキリスト者の「民衆神学」に出会います。また、八六年の世界教会協議会会議では、韓国と北朝鮮のキリスト者が「ノアの虹の契約」を引用し、対話する姿に感動します。
東海林さんが語る、徐兄弟の母、呉己順さんの息子たちへの揺るぎない信頼、常に堂々としていた勝さん、看守に対しても人間的に接し信頼された俊植さんの姿などを聴き、感無量でした。中学生だった私は、テレビのニュースで「徐兄弟事件」を知りました。やけどの傷跡が痛々しく、縄で縛られた勝さんの姿に衝撃を受けました。京都出身の母は、かわいそうにと涙ぐみ、父は「情状酌量して返してやったら良いのに、むごい事をする。」と怒っていました。大学生になって、勝さんの最終陳述書を読み、「積極的民族意識」という言葉に感動しました。私の生き方の原点になる出会いです。
東海林さんは六〇年代後半に留学したアメリカで、ベトナム反戦デモを見ました。アメリカ人のルームメイトが体験した、黒人公民権運動への暴力や、途上国で自国、アメリカへの厳しい批判を突きつけられた話を聴きます。このことが、キリスト教と社会の結びつき、社会的視野を持った教会のあり方、その時代の必要性に応える生き方を考えるきっかけになったそうです。聖書を読み直し、常に虐げられた「小さき者」の味方になるために考え、学び、行動して来られました。
しかし、三・一一の福島原発事故を目の当たりにし、人ごと、関係なしで生きられる人間にさせられている自分に気づき、「恐ろしい認識のちがいの中で、共に生きていること」から出発しなければならないと痛感します。そして、「初めて出会った、民衆の力の原型が呉己順さんだった。」と、自分の生き方を変えた、素晴らしい出会いを振り返ります。最後に「現在の日本は希望が持てない社会だが、そんな希望のない所で、希望の種が蒔かれていることに目を向けましょう。」というメッセージを受け取りました。
人と出会い、その人に感動することで、時代が求める自分の生き方を共に考えていきたいです。そして、希望の種を蒔く人間の一人になれるよう、努力したいと思います。
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。