公益財団法人とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2024年7月 이모저모通信(第18回)

皇甫康子(ふぁんぼかんじゃ)

戸籍上は1934年だが、1932年に韓国慶尚北道義城郡で生まれた少年は生まれたときから自分の国がなかった。貧しい農村の長男として、5歳で家族を養うため、山で薪を拾い、市場で売ったお金を食費の足しにと母親に渡していた。小学校に上がると、走るのも一番、勉強も一番で、川でおぼれそうになった子を助けたこともあった。生活力のない父親の代わりにできることは何でもした。少年のことを誰よりも大切に思っていた祖母は親戚の家を連れ歩き、食事をさせた。貧しかったが、少年は丈夫に育った。ますます食べるものがなくなり、親戚を頼り、少年一家は北海道の美瑛に移住する。大自然の中での生活は楽しかったが、弟が肺炎で亡くなり、埋めた場所も分からなくなってしまった。
1944年、日本が戦争に負けるのではと恐ろしくなり、親戚を頼って大阪の東淀川に移る。朝鮮人の仲間がたくさんいた。学童疎開が始まり、朝鮮人は疎開するところがなかったので、故郷に帰ることになった。祖国で解放を迎え、復学した村の小学校ではたくさんの旧友たちが戻ってきていた。北海道、関東、関西などの言葉が飛び交った。小学校を卒業したあと、中学校に行きたかったが、貧しい生活は相変わらずだったので、あきらめた。朝鮮戦争を経験し、ますます疲弊する生活を何とかしようと、釜山の親戚を頼り仕事を探す。少年は青年になっていた。アメリカ船や親戚が乗っていた船で働いた。捕虜や避難民を移送する仕事だった。船の仕事だけでは家族を養えない。もっと稼ぎたいと考え、もう一度日本の親戚を頼ることにした。船が日本に到着すると、帰国しないで大阪の親戚の家を目指した。小学校時代、日本にいたので朝鮮語なまりのない日本語が使える。父親のたった一人の妹だった叔母さんは東淀川の朝鮮人長屋に住んでいた。夫は朝鮮総連で活動していた。染め物工場、ウエス工場などの肉体労働をし、朝鮮人がやっている下請け工場で機械塗装の仕事を習いはじめた。
元々手先が器用で飲み込みの早い青年はどんどん技術を習得し、親方からも信頼されるようになる。少ない給料のほとんどを韓国の親きょうだいに送金する生活だったが、日本での生活は思ったほど悪くはなかった。親戚の紹介で、京都で生まれた育った女性と結婚することになる。親戚の家での結婚式はささやかではあったが、たくさんの人たちが祝ってくれた。女性は7人きょうだいの長女で、その親戚たちも近隣に住んでいた。たった一人で日本にいた青年はとても心強くなった。養豚の仕事をする両親の代わりに家事、育児を担っていた女性は、たまに行く日本の学校で「チョウセンジン」と虐められ、勉強を続けることができなかった。結婚したことで実家からは解放されたが、夫の叔母の家での居候生活だったので、その叔母夫婦の嫁がわりにこき使われた。それでも、お酒も飲まず、賭け事もしない真面目な夫に満足していた。夫婦の日課は新聞に出ている文字を一緒に学習することだった。
次々に子どもが生まれ、入国管理局に自首し、特別在留権を取得する。機械塗装の下請け会社を経営し順調だったが、気が付けば人生のほとんどを日本で暮らすことになっていた。やりくり上手の連れ合いが57歳で病死してからは、ずっと一人で生きてきた。
「負けたくなかった」という言葉を残し、少年は2024年5月4日に92歳で亡くなった。貧しさに、日本人に、差別に、運命に、病気に、息子たちに、人生のすべてに負けたくなかった。苦労は多かったが、思い通りの人生を歩んだ。身体が終末を迎えても、生きる意欲に満ちていた。あっぱれな最期だった。負けず嫌いの少年は私の父だ。

皇甫康子(ふぁんぼかんじゃ)

2018年2月号に最終回を迎えた連載「なんじゃ・カンジャ・言わせてもらえば」の執筆者、皇甫康子さんの新しいコラムがスタートします。皇甫さんの想いとメッセージがイモヂョモ(あれこれ)詰まったコラムをどうぞ。