2025年4月 少しだけ北の国から@福島(第35回)
辻明典(つじあきのり)
『ソーラーパネルがひろがる景色』
もし福島県の浜通りを歩くことがあれば、ぜひ見ていただきたい光景がある。元々は田畑だったり、集落があったりした場所に、ソーラーパネルが所狭しに広がっているのだ。木々が切り倒され、山野は削られ、次々と設置されていくメガソーラー。「再生可能エネルギー」と名付けられた「人工物」によって海沿いの風景が象られていくという、皮肉にもならない現実。ここでは、田起の香りが潮風とともにひろがることも、頭を垂れた稲穂が青々と広がることも、もう無いのであろうか。ましてや、人間が寝食を営むことも。
さらにメガソーラーによって作られた電気は、またしても関東に送られていくらしい。かつて稼働していた原子力発電所が首都圏に電気を送っていた構造と、うり二つではないか。国内植民地ともいえる構造は、まだ改善されていないのだろう。
私たちは、「なぜ、電気が必要なのか?」と問うことはあるのかもしれない。そのように問うたとき、私たちは電気が必要な理由を探す。明かりを灯すために。暖をとるために。食事を作るために・・・あげれば、きりが無い。電気の恩恵を全く受けていない人を探すことは難しいであろう。もちろん、私自身も含めて。
だからなのか、「そもそも、電気が必要なのか?」という発想にはなりにくい。「そもそも・・・」と問い返したとき、「電気はもしかしたら必要はないのかもしれない」「電気はそれほど必要ないのかもしれない」「暗がりも味わいがあるのではないか」といった考えが浮かぶかもしれない。てつがくカフェをひらくとき、私は「そもそも・・・」という視点を大切にしているつもりなのだけれど、そういった問い返しは、私たちのリアルな暮らしのなかには、なかなか差し込まれない。電気がなくなると、不便になるからだろう。私たちは、便利さを手放せないのだ。たとえその便利さが、だれかの犠牲の上に成り立っていたとしても。
電気とは、毒饅頭のように、一度でも口にしたら逃れられないものなのだろうか。私も、食べているのかもしれない。

辻明典(つじあきのり)
協会事業(哲学カフェ、プロジェクト“さんかふぇ”等)に参加していた辻明典さんが、2013年度より故郷である福島県南相馬市に戻り、教員をしています。辻さんからの福島からの便りをどうぞ。