公益財団法人とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2016年06月 少しだけ北の国から ~ふくしま@辻より

辻明典(つじあきのり)

4月から、特別支援学校に勤めています。
 障がいのある子どもたちと日々接していると、僕たちは「発話」という行為に頼り過ぎなのかもしれない、とさえ思えてきます。たとえ上手に喋れなくても、身振り、手振り、表情、視線などから、なんて豊かな表現が生まれてくるのか…と、ただただ驚くばかりの毎日です(まだまだこの驚きを言葉にすることが十分にできていないのですが…)。うまく表現できないでいること、まだ表現することができないでいること、うまく語れないこと、語りきれないことなどにも、大切な意味が含まれているのだということを、子どもたちから日々教えてもらっている気がします。
 話はとびますが、最近になってようやく、暮らしに余裕が出てきた(休日を確保できるようになった)ので、南相馬での「てつがくカフェ」も再開しました。少しずつではありますが、対話の場をもう一度つくり直しています。僕にとっては、〈仕切り直し〉のつもりです。ちょうど先日、約8ヶ月ぶりに「てつがくカフェ」を開いたのですが、ここでもはっと引き込まれてしまう発言がありました。その言葉を忘れないようにと、その日のうちにノートを取り出して書き留めました。ある年配の女性の発言です。
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 私が丹精を込めて生けた花があるんです。でもね、その花を見たある人にね、こう言われたんです。
「この花には、セシウムは含まれているんですか?」
 って。なんてこと言うの…そう思いました。悲しかった。その人は、花ではなくて、セシウムを見ていたんですよ。花は、心の叫びです。…いや、叫びではないかもしれません。花は、私の心のささやきなのです。きっとあの人は、私のささやきなど聴こえなかったのでしょうね。花の美しさよりも、セシウムを見ようとしていたのですから。
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 この女性は、セシウムは、「花の美しさ」だけではなく、育てた人の思いすらも見えなくさせると言っていたのです。もしかしたら、これまでずっと語られないままに埋もれていた〈思い〉が、一つの〈表現〉として現れたのではないかと思いました。よく、「福島の問題は複雑だ」と言われますが、その〈複雑さ〉を解きほぐす鍵は、人びとの〈表現〉のなかにこそあるのかもしれませんね。

辻明典(つじあきのり)

協会事業(哲学カフェ、プロジェクト“さんかふぇ”等)に参加していた辻明典さんが、2013年度より故郷である福島県南相馬市に戻り、教員をしています。辻さんからの福島からの便りをどうぞ。