公益財団法人とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2018年10月 少しだけ北の国から@福島

辻明典(つじあきのり)

大阪で、地元の話をして恐縮です。でも、できる限り情景が伝わるように努めて書きたいと思っています。
 私が住んでいる福島県の沿岸の、相馬地方にはかつて、潟(ラグーン)がいくつも存在していました。海は陸へと踏み込んで入江を形成し、潮がさせば隠れ、引けば現れる、海と陸との曖昧な境界が、風光明媚な景勝を象っていたのです。
 記録を調べ、実際に歩いた限りでは、松川浦、新沼浦、八沢浦、金沢浦、井田川浦という、八つの大きな潟があり、そこでは海水と淡水が交わり、イサザ、コイ、ウナギ、ウニ…といった生き物がすまい、漁や製塩を生業とする人々が暮らしていました。土用の頃になると、暑さに敵わない井田川浦のウナギたちは、海水と真水が交わる、涼しいところに避難していきます。二つの竹筒を結わえて、海に垂らしておけば、まだ日が昇る前に、ウナギがどれどれと入り込んでくるので、漁師たちは繋げていた縄をひょいと引っ張り上げて、竹筒に入り込んだウナギをとっていたのでした。
 しかし現在は、たった一つしか残っていません。相馬市にある松川浦だけです。
 残りは全て、明治から大正にかけて干拓されてしまいました。潟は田畑に変わり、入江の風景も、生業も、魚も、貝も、船を作る技術も、地域に根付いていた信仰も、失われてしまいました。そして、つい100年前の暮らしを語れる人も、ほとんどいなくなってしまいました。 
 どうも私たちは、海の懐深く入り込みすぎ、海に抱かれた場所で暮らしていることを、忘れていてしまったのかもしれません。津波の被害が甚大だったのは、かつての潟が中心でした。故郷を、2度、3度と奪われた人もいたことでしょう。1度目は、干拓で。2度目は戦争で。3度目は津波と原発事故で、といったように。
 学生の頃、私は大阪に住んでいたので、大阪が水に恵まれた地域であることはよく知っています。きっと、昔は海だったり、川だったり、潟だったりした場所が、ところどころにあるのかもしれません。もし津波がきたらどうなるのだろうかと、遠くから心配しています。

辻明典(つじあきのり)

協会事業(哲学カフェ、プロジェクト“さんかふぇ”等)に参加していた辻明典さんが、2013年度より故郷である福島県南相馬市に戻り、教員をしています。辻さんからの福島からの便りをどうぞ。