公益財団法人 とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2022年7月 이모저모通信(第12回)

皇甫康子(ふぁんぼかんじゃ)

 1999年夏、アウシュビッツ絶滅収容所を訪問した時、ここはユダヤ人が大量虐殺されたことを後世に知らせ、亡くなった人たちの記録と記憶を残すための巨大な墓場なのだと思った。2015年夏にはベルリンで、ナチス時代の写真やポスターなどの「テロのポトグラフィー」を見たり、収容所で亡くなったユダヤ人の名前が記された「躓きの石」を見つけたりして、歩き回った。街全体が加害の歴史に向き合い、事実を記す展示の場になっていた。大阪の朝鮮人密集地に歴史資料館や記念館、「ここに済州島の海女だった〇〇さんが住んでいた」という碑や「躓きの石」がつくれないものかと、ずっと考えているがなかなか実現しない。最近、「在日」の詩人、金時鐘さんの詩がコリアタウンで石碑になったらしいが。
 在日朝鮮人がいなくなり、住んでいた場所の記憶もなくなってしまうという危機感を持っていたが、4月30日、「ウトロ平和祈念館」が開館した。戦争中、京都府宇治市伊勢田町51番地、通称「ウトロ」と呼ばれるこの地域に1941年、京都軍事飛行場建設のために1300人余りの朝鮮人を日本政府が動員し、形成された朝鮮人集落である。日本の敗戦で工事は中断され、補償もなく朝鮮戦争により帰国することも困難だった。水道がないなどの劣悪な環境にあっても、住民たちは力を合わせて学校を建設し、民族教育を行った。そして、1987年、理不尽な立ち退き問題が発生する。2000年、裁判で敗訴し強制退去の脅威に苦しめられたが、居住権に関する人道問題として世論を喚起し、韓国社会からたくさんの賛同や協力を得、土地を買い取ることができた。立ち上がる当事者を支え、運動を牽引してきた日本人の仲間たち。日本人の立場で、できることは何でもしてきたというすごい人たちだ。
 祈念館に到着すると、期せずして「在日」の後輩たちが出迎えてくれた。祈念館設立の実行委員メンバーになって、長年活動しているということだった。頼もしい。館内には、住民たちの「家族写真」が展示され80年以上のウトロの歴史を物語ってくれる。ご飯を炊いていた手作りのかまどがあり、西部劇に出てくるようなバラック小屋の住居の写真もある。一番興味を引いたのは、自分たちで作った民族学校の展示だった。苦難の中にあっても子どもたちのことを中心に考えた先輩たちが、誇らしい。
 祈念館の外を歩くと、2021年8月30日に放火された住宅跡がある。「韓国が嫌いだった。在日に恐怖を与える狙いがあった」と犯行の動機を語る22歳の青年。「在日」の記録と記憶を残し、「ヘイトクライム」に対抗するための拠点として、祈念館の役割は大きい。たくさんの人たちが見学することで、祈念館を守り、発展させていける。是非、訪問してほしい。

皇甫康子(ふぁんぼかんじゃ)

2018年2月号に最終回を迎えた連載「なんじゃ・カンジャ・言わせてもらえば」の執筆者、皇甫康子さんの新しいコラムがスタートします。皇甫さんの想いとメッセージがイモヂョモ(あれこれ)詰まったコラムをどうぞ。