公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第85回 戦後70年、そこにいた人の思い

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

ナチス・ドイツのポーランド侵攻によってはじまった第二次世界大戦の終わり、ロシア戦線で左手を失い、故郷の山あいの村に帰った17歳のヨハンは復職し、郵便配達人をしています。シングルマザーで助産師だった母は仕事中に遭難し、一人息子に再会できないまま亡くなってしまいました。ヨハンは毎日、20キロ近い郵便物を抱え、20キロの山道を歩きます。時には手の代わりに唇や歯を使わなくてはなりませんが、失くしたのが左手だけで本当に良かったと思っています。戦争はこんな辺鄙な村にもたくさんの変化をもたらします。ヨハンの配達区域の七つの村々にもたくさんの戦死者や行方不明者が出ていました。
強制労働させられているポーランド人やウクライナ人、フランス人の捕虜やドイツ人の疎開者たちが村に入り、徴兵された父や夫、息子に代わる働き手となったり、同居者になったりしました。村に残されたのは徴兵を免除された数人の男性と高齢者、女性と子どもです。雪深い厳しい自然の中で生活する人たちの共通点は助け合う気持ちです。ヒトラー・ユーゲントに心酔する若者がいる一方で、収容所で殺されるであろう、障害を持つ若者を守ったり、収容所から逃げてきたロシア人捕虜を匿ったりする人たちがいます。
ヨハンは毎日、村の人たちに郵便を配達し、回収する仕事をしながら人との繋がりを大切にしていきます。特に、「黒い手紙」と呼ぶ、戦死通知を渡すときには細心の注意を払わなくてはなりません。息子は死んでいないと事実を受け入れない母親、終戦間近に召集された15歳の息子を失い号泣する母親、収容所からの手紙で再会を待ち望む母親、それぞれに異なる対応を考える毎日です。臨月の体で夫の死と向き合わなければならない女性が、無事に出産するまで「黒い手紙」を渡すことを先延ばしにするヨハンの姿は痛々しいです。
そんなヨハンにも助産師の恋人ができました。彼女の奔放さ、自由さ、強さに幸せを感じ、再会を待ち望むヨハンでしたが、その結末は悲惨です。
主人公のヨハンと同世代の1928年生まれの、今年88歳にして現役の作家であるパウゼヴァングの百冊目にあたるこの本は、ナチス・ドイツの敗色が濃くなる1944年夏から翌年5月までの物語です。 パウゼヴァングは17歳で、終戦を迎え、 戦後は故郷のボヘミアを追放され、西ドイツに移住します。中等教育修了資格を得たのち教職に就き、1956年には南米に渡って、チリ、ベネズエラのドイツ人学校で働いたあと、ドイツで小学校教諭として教えるかたわら、80冊を越える本を書いています。
 彼女がヨハンに語らせている言葉に、「小さな世界も、大きな世界と大して違わない」「一日一日が違う。驚きや発見もあるよ」「郵便配達人は人と接する仕事だ。手紙そのものよりも、手紙を受け取る人との関わりが大切なんだ。良き郵便配達人は心の医者でもある」と辺鄙な村で郵便配達の毎日に意味があるのかと問う友人に応えるものがあります。この言葉に通じる仕事はたくさんありますね。
 あとがきで「ドイツ国民は、ヒトラー支配下で犯した罪に対して厳しく罰せられました。でもそれは当然の報いであり、私たちは罰を受け入れました。ヒトラーの独裁政治は誘惑的でした。自分が何をすべきか、自ら判断する必要はなかったからです」「戦後、私たちは学びに学びました。子どもたちも学校で、以前とはまったく異なる観点に立つ歴史教育を受けました」ドイツが暴力的犯罪国と見なされなくなり、他国と対等な友人関係を結ぶのに何十年という歳月が必要でした。日本はどうなのかと彼女は問いかけます。「罪を認め、心から詫び、できるかぎりの償いをして、共生していく努力が大切です」という戦争の目撃者としての彼女の言葉は重たいです。
 春の息吹を感じる季節に、素晴らしい本『片手の郵便配達人』グードルン・パウゼヴァング作、高田ゆみ子訳(みすず書房)を読みました。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。