第10回 先人の生き方に学ぼう
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
ずっと、突っ走ってきたが、自分がやってきたことは何だったのか?と振り返ることがあります。目の前の課題に追われる毎日だと、こんな贅沢な悩みは持たないのですが、久々のスランプです。同世代の友人たちも、病気になったり、元気がなかったりと、しんどい状況です。無理して元気に振る舞うと、後でよけいにやる気がなくなるので、放置していると、そのままの停滞期が四ヶ月近くになりました。仕事も活動も、順調なのですが、何かが不足しているのです。
力が出ない毎日から抜けだそうと、素晴らしい講義を聴講したり、友人と会ったり、習い事をしたり、劇場に出かけたりしました。もちろん、のめり込めそうな本も探しました。そんな時、こまつ座&ホリプロ公演、「組曲虐殺」を観たのです。ピアノ演奏、歌、知らなかった事実に泣き、笑い、感動し、小林多喜二の高潔な魂に触れたような感触が残りました。
安心して弱音を吐ける友人に、この感動を伝えると、三浦綾子の小説、「母」を読むように勧められました。小林多喜二の母、セキが晩年、自分の人生を語るという手法で小説は書かれています。貧農に生まれ、幼くして嫁いだ先も貧農ですが、セキは六人の子どもを生み育てます。貧しさ故に最初の子どもや夫を亡くし、その貧しさをなくそうと小説を書いた多喜二は、一九三三年二月二〇日、東京の築地警察署で虐殺されます。多喜二のすさまじい拷問の跡をみたセキは、「世の中に貧しい人がいなくなって、みんな明るく楽しく生きられる世の中にしたい。」と願った息子が、どんな悪いことをして、こんな姿にさせられたのか、納得できないと訴えます。
多喜二の虐殺後、日本は戦争への道を突き進みます。息子の代わりに、時代の流れをつぶさに見てきたセキの周りには、多喜二を支持する人たちがいつも寄り添っていました。小林家の貧しくても、優しい人たちの生き方は、多喜二の「小さき者」たちへの優しさに繋がります。多喜二によって、身売り先から救済され、自立の術を学ぶことができた、田口タキさんの凛々しい姿も、演劇や小説の中に登場します。今年(二〇〇九年)、六月一九日に、タキさんは一〇二歳の生涯を閉じられました。
本を読み終えると、何とも言えない、力が湧いてきました。そして、今まで、出会ってきた、魅力ある人の生き方に学び、その知恵に救われたことを思い出しました。今の私は、セキさんやタキさんのように、淡々と自分の責任を全うする強さを見習いたいです。
最近、京都朝鮮第一初級学校に日本人団体が押し寄せ、子どもたちがいるにも関わらず、拡声器を使い、約一時間、汚い言葉で、朝鮮人を侮辱し、ののしるという事件が起こりました。低学年には泣き出す子どももいて、パニック状態になったそうです。新年を迎え、日本の皆さんの良心に訴えたいです。「人種差別も表現の自由」と主張してきた日本政府を糾し、二〇一〇年こそは、人種差別禁止法を制定してほしいです。多喜二が夢見た、平等で平和な社会の実現のために。
皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)
1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。