公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第30回 『嗚呼、満蒙開拓団』を観て

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

二〇〇八年に上映されていた、羽田澄子監督のドキュメンタリー映画、「嗚呼、満蒙開拓団」を今年の夏、観ることができました。長野県から、ハルピンよりもっと、ロシア(ソ連)に近い満州の奥地に、開拓団として渡った人たちの証言で映画は構成されています。
 一九三一年の柳条湖事件にはじまる日本軍の満州侵略により、日本農民の満州移民計画が実行され、約二七万人が移民させられました。開拓団に送られた多くが、貧農の次男や三男の家族でした。日本が戦勝に沸き立っていた頃は、今まで経験したことのないような豊かな暮らしだったそうです。戦況が悪くなっても、「満州へ行けば、お米もたくさんあるし、作物は誰でもできる。」という役人の言葉を信じ、終戦の二ヶ月前に、家族で移民した人たちもいました。自分たちが開拓する土地が、中国の人たちから奪い取ったものだということも、危険な国境地帯を守るために配置させられたことも、当時の開拓団の人たちは知りませんでした。貧しい家族を飢えさせたくない、という願いだけだったのです。
 ソ連参戦により、父親は連行され、残った女性と子ども、老人たちがハルピンを目指して逃避行をします。襲撃の危険、飢えと疲労で、子どもたちが犠牲になっていく悲劇がたくさん起こります。ようやく、方正の避難所に到着することができても、厳しい冬を越せずに多くの人たちが亡くなりました。そんな人たちの遺骨を埋葬したのが、「方正地区日本人公墓」です。戦後、十数年が経過した頃、大きな三つの山となった遺骨を見つけた残留婦人が、「せめて埋葬してあげたい。」と訴え、当時の周恩来首相が許可をしました。
 方正で家族を亡くした人たちの「墓参団」に同行した羽田監督は、その時の様子や、その後の人生を聞き取っていきます。「戦争に負けると分かっていて、何で私たちを満州へ送り出したのか、聞きたい。」と語る女性は満州に着いた途端、避難命令が出て、荷物を解くことなく逃避行し、父母、妹らを亡くしました。「逃亡手段を持たない老人や女性、子どもたちを振り払って、自分の乗っている軍のトラックは進んだ。」と当時、一〇歳だった男性は語ります。軍人家族は最優先で避難し、日本に帰ることができたそうです。この男性も、満州で母親と妹を亡くしています。中国の心優しい養父母に育てられた夫婦もいます。「日本人だと分かると差別される。中国人の何倍も努力して、日本人はだめだと言われないようにした。」と語る夫婦は日本に帰国しましたが、今度は言葉の分からない日本で、苦労を強いられます。生活に追われる毎日の中で、保育所では子ども達が、汚いと言われ、辛かったそうです。九〇歳を超えた、養父を訪ね、堅く手を握り、抱き合う姿が映画にありました。
 「中国残留日本人孤児」の訪日調査は、一九八一年からはじまりました。そして、二〇〇二年に提訴された、中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟が、二〇〇六年、神戸地裁裁判で勝訴しました。調査も補償も、あまりにも遅い、遅すぎます。八年ほど前、残留婦人の孫が中国に強制退去させられるという記事を読み、六年生の社会科で「残留孤児」の問題を考える授業をしました。日本が仕掛けた戦争ですが、大きな代償を払わされたのは誰なのか、子どもたちは「中国や朝鮮、アジアの人たちに迷惑をかけた戦争だと思っていたけれど、日本人に対してもひどい。」と驚いていました。
 私たちの周辺にも、残留させられた日本人に繋がる人たちがいます。故郷である日本で、不当な扱いや、差別を受けるなんてとんでもありません。
 羽田澄子監督は一九二六年、大連で生まれ、旅順で育ちました。自らの体験と、旧満州開拓団の人たちの証言を記録することで、日本の近現代史を振り返っています。
 映画を観たあと、六六回目の終戦記念日を迎えました。これからも、多様な人たちから、戦争体験を聞き、伝えていきたいと思います。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。