公益財団法人とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第40回 本当の中立

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

どうも、調子がでない今日この頃です。やる気を出そうと、努力はしているのですが、できることなら、ずっと寝ていたい。体も心も、雨雲のように停滞しています。そんな時、電車の中で昔の教え子に再会しました。一〇分程度の会話でしたが、小学校で学んだ人権学習の強烈な印象を今でも覚えていると言うのです。「森永ヒ素ミルク事件」や「水俣病」、グループで考え、歩いた広島の修学旅行、「渋染一揆」、「識字」、「朝鮮の独立運動」、「アウシュビッツ」のことなど、はじめて知る事実に驚き、怒り、被害者の側に立って考える、子どもたちの真剣な眼差しを思い出しました。その数日後の六月十一日、原田正純さんが急性骨髄性白血病で亡くなったという記事が出ました。昨年、テレビの特集番組で、五〇歳を超えた、胎児性水俣病の人たちと楽しそうに話をされていたのに、残念の一言です。病床にあっても、闘いの意欲は衰えず、亡くなるまでの半世紀近くを、被害者に学び、寄り添い続けられました。
長年、垂れ流された有機水銀のせいで汚染された、水俣の海。不知火海の恵みで生活していた人々を襲った、取り返しのつかない公害病が水俣病です。子どもたちと学習すればするほど、利潤だけを追い求める企業の身勝手さ、そんな企業の側に立つ政府の醜さに唖然とさせられました。一方で、病気に苦しみ、手ひどい差別を受けながら、生き抜こうとする水俣の人たちの姿があります。日本全国、世界を回り、水俣病について訴える、胎児性水俣病の人たちの姿があります。この人たちの話を聞き、病気の原因を探り、謝罪と補償を勝ち取った、原田先生のような支援者の姿もあります。原田先生は水俣で学んだことを、三井三池炭坑爆発事故の一酸化中毒後遺症、カナダの先住民族たちが被害を受けた水銀汚染、ベトナムの枯れ葉剤、インドのヒ素汚染などの調査に活かし、活動を広げてこられました。番組の中で、原田先生は「あんたは患者の側に立ちすぎて、中立じゃないとよく言われたが、加害企業や国家と被害者の圧倒的な力の差がある場合、何もしないでいるのは強い力に協力していることになる。弱い立場の側に立つことが本当の中立になる。」と話されていました。若い医師たちには、「病気を治すのが医者の役目だが、治らない患者に直面した時、どんな関係が持てるのか。」と迫られていました。患者の不安を受けとめ続け、水俣病に五〇年以上、関わって、ようやく、カルテに書ききれない患者さんたちの生活や思いを知ることができたと頷かれていました。
原田先生が小学生向けに書かれた「水俣の赤い海」(フレーベル館、一九八六年発刊)を開くと、「謹呈、五年生の皆様へ、かんそうや、はげましの手紙ありがとう。水俣病は相手の身になって考えようとしないからおこりました。いつも相手の身になって考えられる人になってください。二〇〇〇年三月六日、原田正純」とあります。読み進むと、「病気がみつかってからも、原因がわかってからも、国が水俣病を正式に公害病と認めても、さいばんで会社からばいしょう金が出ても、しょう状は一つも変わりません。とくに、子どもたちには長い人生があります。―ふたたび、水俣病をこの地球の上にくりかえさないように、この子どもたちの生き方をみんなで見つめ、はげましたいものです。」と、締めくくられていました。七月末には国が水俣病の救済策を締め切ろうとし、「チッソ」も会社を刷新し、今後の補償金をあいまいにしようとしています。原田先生という支えを亡くした、胎児性水俣病の人たちの不安は計り知れません。子どもたちに伝えることしかできませんが、見つめ続けていきたいと思います。
「改定入管法」という新しい外国人管理システムが七月九日から施行されます。当事者たちには何の説明もなく、今までの自治体でのサービスも受けられなくなるそうです。不安が募ります。落ち込んでなんかいられません。何か起これば、声を上げていかなくてはなりません。教え子の励ましを胸に、私たち、外国籍住民の側に立ってくれる日本の仲間を信じたいと思います。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。