2020年01月 이모저모通信(第5回)
皇甫康子(ふぁんぼかんじゃ)
冬を迎えた「釜ヶ崎」
「釜ヶ崎」「あいりん地区」という呼び名で知られている、日雇い労働者の街を歩いた。釜ヶ崎の形成史を読むと、清国やロシアとの戦争に勝利した日本は繁栄の基礎となる労働力を貧農階層や朝鮮人労働者に依存していて、そんな労働者を受け入れたのが釜ヶ崎だった。1910年、朝鮮を植民地にした日本は朝鮮人を強制徴用して、鉄道建設や軍事施設へ動員し、急激な資本の蓄積に成功する。戦争中の軍需産業、戦後のアメリカによる経済復興と朝鮮戦争の「特需ブーム」によって釜ヶ崎も労働者の街として再生する。
1964年の東京オリンピックから1970年大阪万博までの急激な労働力の需要により、単身労働者密集居住地区としての釜ケ崎が成立する。日本で一番野宿者の多い街として、このせまい地域に一時期は3万人もいたが、現在は1万人に減少している。
失業や借金で、住むところがなくなり、釜ヶ崎に流れ着いた人たちは、一日一万円と張り出された日雇い求人の車にのって、厳しい労働現場に連れていかれる。雨が降れば仕事はなくなり、宿泊費が払えない。市の支援施設も少なく、野宿することになる。仕事にありつけず、週二回の炊き出しだけでは栄養不足で病気になる。そして、2000年から中学生や高校生による襲撃事件が起こった。福島原発事故当時に、条件の良い仕事だと飛びついたが、原発事故現場の作業だと知り、恐ろしくなって逃げてきたという人もいる。
不就学の子どもたちは、1962年開校のあいりん小学校、中学校(当時は分校)に集められ通学するが、朝食が摂れない子どもが多く、午前中の体育ではバタバタ倒れ、教員たちが見るに見かねて市と交渉しパンと牛乳の朝食を支給したという話も聞けた。就職時にあいりん中学校出身だと名乗ると、差別されることが多く、結局、閉校となった。映画、「さとにきたらええやん」の「こどもの里」に入ると、いろいろな年齢の子どもたちが思うままに過ごしていた。民間のこの小さな家が、どれだけたくさんの子どもや保護者たちを支えてきたのかと思うと、頭が下がる。
説明を聞きながら監視カメラがある街を歩いていると、仕事がある人とそうではない人がはっきりしてくる。昼間でも路上で毛布にくるまっている人、集まって話をしている人、公園で炊き出しに並んでいる人たちの視線を浴びると「見学」「フィールドワーク」している自分たちが恥ずかしい。最近は就職できない若い世代が奨学金の返済に追われたり、実家に頼れなくなったりして、野宿する人が増えているそうだ。女性はさらに大変で、誰もいないビルの非常階段で寝ている人もいる。まずは、職場の仲間に伝え、子どもたちに話をした。今年も、釜ヶ崎は厳しい冬を迎えている。
皇甫康子(ふぁんぼかんじゃ)
2018年2月号に最終回を迎えた連載「なんじゃ・カンジャ・言わせてもらえば」の執筆者、皇甫康子さんの新しいコラムがスタートします。皇甫さんの想いとメッセージがイモヂョモ(あれこれ)詰まったコラムをどうぞ。