公益財団法人とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2023年12月 少しだけ北の国から@福島(第31回)

辻明典(つじあきのり)

 福島第一原子力発電所でたまり続けている、放射性物質トリチウムが含まれた「処理水」。ついに太平洋へ「処理水」が放出された。以前にも書いたけれど、これは僕の住んでいる地域で、現在進行形で起きている、「処理水」をめぐる課題だ。(「処理水」とは言うが、「汚染水」とは言わない。)
 「・・・政府を挙げて国内外において、丁寧に説明・発信を行ってまいりました。」
 「丁寧に説明」は、政治の常套句である。かいつまんで申し上げるならば、データを提示することで、客観性や科学性を強調し、繰り返し、説明をする、ということであろう。
 福島県の沿岸部に住んでいながら(自転車で移動すれば、海が目える場所まですぐにいける)、私は実際に「丁寧な説明」を受けた記憶が全くないので釈然としないが、きっと「丁寧な説明」は、いたるところでなされているのであろう。それでもなお、政治への不信感が渦巻いているのは、なぜなのだろうか。それは、単刀直入に申し上げて、政治が信頼されていないからだろう。そして国から、市民の声を聴くに値しないとみなしている姿勢が、垣間見えるからだろう。
 信用していないのに、信頼してくれというのは、無理な注文である。
 双葉郡に住んでいたある方に、こんな話を聞いたことがある。原子力発電所ができてから、これまで採れていたはずの魚や貝が、とれなくなってしまった。あれほど巨大な建造物は、海の生態系まで変えてしまうのだろう、と。
 海岸線のそばを走れば、山は削られ、土が積み重ねられ、巨大な要塞のような道路が、新しくできはじめている。海のそばだけではなく、削られた山にも、太陽光発電のパネルが続々と並びたち、もともとの自然が技術によって蹂躙されるかのようである。
 積み重ねられた歴史の先に、現在がある。原子力発電所の建設は海の生態系を崩し、原子力発電所の事故は故郷の喪失を招き、現在は太陽光パネルが海沿いの風景を一変させている。
 白砂青松の海岸線が、国家の論理に翻弄され、土地は変わり果てた姿となり、風景が目まぐるしく変えられる日常のなかにいれば、人々の心の動きはどうなるのだろうか。急かされるように土地の姿が変わる日常が当然となれば、「処理水」(もとい!「汚染水」)をはじめ、「私たちの暮らし」について立ち止まって考える暇すらも無い。私たちの話を聞こうともせず、せかされるような日常を強いる国家の主張など、信用に値すると言えるのだろうか、といった心理が生まれるのは、当然の帰結ではないかと思わざるを得ない。
 渦巻く不信は、社会に影を落とす。その影は、いずれ私たちを覆うだろう。影は表情がない。だからこそ、目をこらして見なければならない。

辻明典(つじあきのり)

協会事業(哲学カフェ、プロジェクト“さんかふぇ”等)に参加していた辻明典さんが、2013年度より故郷である福島県南相馬市に戻り、教員をしています。辻さんからの福島からの便りをどうぞ。